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「善子」と「ヨハネ」

〇前書き

ちょっとクソ長い文章(しかもネタ要素が少ない)

を投稿してしまったので、その口直しにでもどうぞ。

 

こちらは僕がブログを始めるきっかけとなった文章です。

2019年度金大祭のLL研ブースに置かれた部誌に投稿させていただいた文章です。

手に入れた人はそんなに多くないかなと思うので…。

ゆったりとした気持ちでお読みください。

 

〇「善子」と「ヨハネ

世の中の人間は二種類の人間に分かれる。

一方は津島善子のことを「善子」と呼ぶ者。

そしてもう一方はヨハネと呼ぶ者だ。

 

ある日、私はゲームセンターのクレーンゲームでフィギュアを取ろうとした。

そのクレーンゲームは条件を満たせばケースの中の好きなフィギュアを選ぶことができる方式であった。

数百円を投じ、どうにかフィギュアの獲得権を得た私は店員にこう言った。

「そこの『善子』お願いします」

 

すると店員はこう返した。

「あちらの『ヨハネ』ですね」

 

(おや…?わざわざ「ヨハネ」と言い直したぞ、この男…。)

 

私はそう思わざるを得なかった。

そのとき私は確信したのだ。

津島善子のことを「善子」と呼ぶ派と「ヨハネ」と呼ぶ派が存在することを。

―そしてそれらは決して相容れない。

 

また別の日、再びフィギュアの獲得権を得た私はもう一度「善子」と言った。

すると、やはりその店員はヨハネと返すのだ。

何であろうか互いのこの確固たる意志は。

どちらも全く譲る気などないのである。

 

ここで、もしかしたらこの文章を読んでいる人の中には

「は…?どっちでもよくね??」

「あほくさwww」

「興味ないずら」

「どうでもいいデース」

「イミワカンナイ」

「どっちでもいいじゃないですか~。だってぇ、か●みんが一番かわいいんですもんっ!」

などと思う人がいるかもれない。

 

しかし、これは津島善子をめぐる重要な問題なのである。

 

たけ●この里派のキミはその主張を曲げることができるだろうか。

逆にき●この山派のキミは、一番の座を長年のライバルたけのこや新参者の切り株野郎に譲ることができるだろうか。

いや、できない。

それと同じである。

譲れない何かがある以上、我々は真剣にこの問題と向き合わなければいけない。

 

それが不毛な戦いであろうと、

周りからバカにされようと、

戦い続けなければならない。

自らの主張を守り続けなければならないのだ。

 

もうお分かりだと思うが、私は「善子」派である。

だってかわいいじゃん「善子」って…。

このご時世、名前に「子」がつくなんて逆にかわいいじゃん…。

しかも「善い」「子」だよ!?

何てストレートでいい名前なんだ…。

尊い…。

推しが尊い…。

 

更に私が「善子」と呼ぶにはもう一つの理由がある。

自分を天使だと思っていた頃の善子。

中学で堕天使ヨハネに目覚めた善子。

高校で自らの持つヨハネという二面性に悩む善子。

そしてその二面性を自分のものとした善子。

それらは全て「善子」なのである。

私はその成長過程が好きだ。

だから善子が好きだ。

今のみんなと楽しそうに輝いている善子が大好きだ。

だからこそ、その愛を「善子」という呼称で表しているのである。

 

しかし、実は「ヨハネ」と呼ぶ者の言い分も非常にわかる。

ライブに立つあの姿はまさしく堕天使ヨハネであり、津島善子アイデンティティである。

その姿に、ステージの上でスクールアイドルとして輝いている姿に、彼らなりの敬意を込めた「ヨハネ」という呼称も実に素晴らしい。

はぁ、やっぱ善子推せる…。

 

確かに「善子」と呼ぶ派、「ヨハネ」と呼ぶ派の主張はどちらにとっても簡単に譲れるものではない。

だが、お互いを認め合うことはすべきなのではないだろうか。

自らの主張を貫く強さも相手のことを認める優しさも、我々には必要なのではないだろうか。

なぜか。

我々は津島善子に対しての強い愛を持つ同志であり、互いの愛を高め合える良きライバルだからである。

 

我々はこれからもずっと津島善子を応援し続ける。

それぞれの呼び方は違えども、津島善子を応援したいという気持ちは同じなのだ。

 

ありがとう「ヨハネ」派。

これからもよろしく「ヨハネ」派。

そして、こんな友を与えてくれてありがとう善子―。

 

【追記】2020.7.13

こんな記事を書いてからもう何か月経っただろうか。

あれから私は津島善子のことをごくたまにヨハネと呼ぶようになった。

自分の中にどんな心境の変化があったのかはわからない。

だが、人が彼女のことを「ヨハネ」と呼んでいると、ふいにつられて自分も「ヨハネ」と呼んでしまうのだ。

一見、あれだけ貫き通していたこだわりが薄れているようにも感じられるだろう。

ある人は失望さえしてしまうかもしれない。

「お前のこだわりはそんなもんなのか」と。

だが、私はこんな変化も悪くないと思っている。

きっとこれは、自分が本当に心の底からヨハネ派のことを受け入れることができた証拠である、と信じているからだ。

それに、この世の中に全く変わらないものなんてなかなかない。

そう、当時"たけのこ派"だった私がいつの間にか"きのこ派"になっていたように、ね。